雲に覆われたピークまでの高低差は、残り100 m。
そこに行くだけの力は、まだ残っていた。
しかし・・・
標高に比例して強まる風。
確実に悪化する天候。
残り100mの高度を往復するのに必要な時間と体力。
予報では、明日は未明から雨・・・
予定を変更して、今日中に下山すれば、最も危険な鎖場を天候が持つうちに通過できる・・・
ただし、予定2日分の行程を今日の日没までに歩かねばならない。
行くか、戻るか。
この状況から判断すれば、選択すべき答えは明らかだ。
いつかまた、ここへ 来ればいい。
登頂を断念し、僕たちは引き返すことを選んだ。
標高が下がると、先ほどまでの強風は徐々に弱まり、
冷気を孕んで吹く風は「天然のクーラー」のようで 心地よかった。
左足親指の巻き爪にできた、小さな肉芽腫の痛みだけが、自分の中の不安要素だが。
でも、まだ、足を引きずらずに歩くことは出来る・・・
パーティの仲間たちを心配させるわけにはいかない。
ゼリー飲料
途中の小屋前の広場で大休止。昼食を摂るために湯を沸かす。
バーナーの力強い音を聞きながら、ふと隣を見ると何もせずに手元を見つめているきみがいた。
そうか・・・。この先には、往路、登攀に苦しんだ連続する鎖場がある・・・
「食べたくないのかい?」
そう問うときみは涙色の目をして、無言で頷いた。
今日の行程は長い。グリコーゲンが尽きたら歩けなくなる。
何としても日没までにベースキャンプまで降りなければならない。
「ゼリーなら食べれる?」
頷くきみに、僕はザックから行動食のゼリー飲料を取り出した。
アタック時のエネルギー補給用に、重いのを我慢して持ってきたものだ。
ここまで運んできたことを思うと少しのためらいはあったが、今はそれより大切なことがある。
ゼリー飲料を受け取ったきみがそのキャップを廻すのを見て、一安心。
「大丈夫。登れたんだ。降りれないわけがない。」
きみは涙目のまま、少し笑って、頷いた。
クライミング・リーダー
「 ザイル出せ 」
登攀リーダーは力強くそう言うと、受け取ったザイルを左肩に掛け、切り立った崖に立った。
その姿は、古代ローマの戦士のように見えた。
体力に優れたサブリーダーがザックのピストン輸送を登攀リーダーに申し出た。
ロッククライミングの経験が豊富な登攀リーダーがメンバーと自らをザイルで結ぶ。
短い言葉で、的確にステップの切り方を指示。
最後に僕が降りて、最大の難所である連続した鎖場をメンバー全員が無事通過した。
よかった。でも、まだここは雲の上だ。
僕たちは、あの雲の下へ行かねばならない。
水場
標高が下がるにつれて気温と湿度が高くなり、発汗が激しくなった。
山頂近くで吹いていた冷たい強風が嘘のようだ。
休憩時だけでなく、身体が欲する度、ひと口、ふた口と、少しずつ水を飲む。
ゴクゴク、音を立てて飲みたくなるが、必死で我慢する。
朝、1.5L あったはずの水。出発時にはその重さから必要十分な量といつも思えてならないが・・・
ザックのハーネスに付けたペットボトル内の水の残量は、今、残り1/3もない。
登りで水を補給した、岩清水の湧く水場が、もう近いはずだ・・・。
水は、ザックの重さを左右する・・・。
水を入れると極端に重みを増すザック。
今回の山行では、真水2.0Lに加え、ペットボトル飲料500mLを3本用意した。
これだけで3.5kg・・・。山行初日、荷の重量は20kgを超過した。
ザックの比較的高い位置に水をパッキングしたため、岩場の登攀時に身体が振られて困ったが。
ヒトは水無しではいられない。
ようやく水場へ到着。岩の割れ目から清らかな冷水がこんこんと湧き出している。
この山系に降った雨が、地下に染み渡り、岩盤で濾過され、冷水となって・・・
ここで湧き出すまでに、いったいどれくらいの歳月を必要とするのだろう・・・
先に到着したメンバーが、歓声をあげて水をペットボトルに詰めている。
水を汲む前に、ペットボトルに残ったぬるい水を一気に全部飲む。
ここまで運んできた水だ。捨てる気になど、到底、なれない。
ザックを開けて空の水筒も出し、ペットボトルと合わせて冷水1.5Lを補給する。
ここでは我慢する必要はない。
古第三紀の花崗岩で濾過された透明で美しい水をペットボトル1本分、そのまま飲む。
ゴクゴク・・・ のどが鳴る。
( なんて うまい 水 なんだろー! )
再び、補給してペットボトルを冷水で満たす。
持っている水筒とペットボトルをフル活用すれば3.5L補給することも可能だが1.5Lに留める。
山行3日目で軽くなったと言っても、まだザックの重さは間違いなく15kg以上ある・・・
これを16kgにするか、18kgにするか、この状況で、どちらか一つを選ぶなら・・・
少しでも軽く・・・ 少しでも軽く・・・ そう気持ちが傾くのは当然だ。
とにかく、この水がなくなる前に、ベースキャンプまで降りなければならない。
ようやく太陽は大きく傾きはじめ、日没が少しずつ近づいてくる。
あとは時間との競争だ。
僕の体力は持つだろうか・・・
肉芽腫
悪いことに、左足親指の爪の左側にできた肉芽腫が次第に強く痛むようになってきた。
時折り、大電流が流れて、強く痺れるような、激しい痛みが僕を襲う。
そうなると、とても歩くどころではない。
両ひざに手をついて、じっと痛みがおさまるのを待つ。
傍から見れば、バテて休憩しているようにしか見えないだろう・・・。
記憶にある往路は、木の根が縦横に入り組んだ、傾斜のきつい、一歩の高低差の大きい登り道。
所々に風化した花崗岩の露頭・・・そう、真砂の上を登る箇所もあった・・・
登り始めから森林限界を超えるまで、その風景の繰り返しだった。
今は、登りが下りに変わっただけで、ゴールまで記憶にあるこの風景が続くのだ。
泣いても、わめいても、誰も僕を救援してはくれない。
自分の命は、自分で運ぶしか ない。
山と交わした その約束は 絶対 だ。
実は、山行前から左足に小さな違和感があった。
山行の一週間ほど前に足の指の爪を切った際、左足親指の爪を少し深く切りすぎたのだ。
( しまった! )と思った時は、後の祭り。
爪と指の細胞のつながりの部分を、僕は切ってしまっていた・・・。
山行2日目に一人用テントの中で、就寝前に靴下を脱ぐと、そこには小さな肉芽腫が出来ていて・・・
流れ出る血と膿を見た瞬間、たまらなく不安になったけれど、
これ以上酷くならないことを祈りながら、絆創膏をそっと患部に貼るくらいしか・・・
僕にできることはなかった・・・。
山行3日目の今日は、朝から状態を1度も確認していないのだけれど、
痛みから想像して、肉芽腫が成長していることだけは間違いない。
今、ここで出来る「治療」など、あるわけがない。
痛みは、生きている証拠。
そう考えて痛みに耐え、一歩一歩前へ進む。
きみと小休止
気がつくと、僕の前を行く きみが 少しずつ遅れ始めた・・・。
決して初心者ではない、きみだけれど、
危険を避けるために必要な予定プラスアルファの行動は、
おそらく、きみの体力とギリギリいっぱい。
そのちいさな肩に、今日のザックは少し重かったに違いない。
僕の左足の痛みは増す一方だけれど、まだ、きみと同じ速さで歩くことは出来る。
僕は、そっと、きみの後ろへついた。
「少し、休んでも いいですか?」
僕の本当を知らない きみがかけてくれた声は、僕の心の声だった。
最後の小休止
みんなが小休止する小広場に、ふたりは少しだけ遅れて到着。
ザックを降ろす間もなく、そのまま地面に崩れ落ち、僕はタオルで汗を拭う。
( もう少しで、ゴールだ・・・ )
ただ、それだけを思う。
息が荒いわけではない。熱中症の心配も、まずない。
呼吸は正常。意識も明瞭。まだ、水もある。
だけど・・・ もう、足が動かない・・・。
ザックのウエストベルトのポケットからブドウ糖のタブレットを取り出す。
錠剤を2つ、掌に落として口へ運び、そのまま、ガリガリと噛み砕く。
ここまで幾度となく、この行動を繰り返してきたけれど、感覚として「何か」が違う。
もしかして、グリコーゲンが尽きた? 多分、そうだ。
( もうすぐ・・・ 動けなくなる )
日没まで、残された時間はあとわずか・・・
もし、引き返していなかったら・・・
登攀リーダーの決断の本当を、体験として理解できた瞬間だった。
経験豊かな登攀リーダーは、山行全体を見ていた。
単に「頂上直下が強風」だから「下山する」のではなく、
そこから山頂を往復するまでに消耗する体力と時間、
さらに、今後悪化する天候を見越して、
今日中にベースキャンプまで降りるのに必要な体力と時間。
メンバー全員のそれを、すべて計算した上での判断だった。
隣ではサブリーダーが、地面に座り込んだきみに声をかけていた。
「あたまを前に・・・」
水場で汲んできた冷たい水をかけてもらって、
きみは少しだけ、自分を取り戻した。
登攀リーダーは、予め、このシーンがあることを予測していたに違いない。
「ここから先は、これまでより高低差のない道がゴールまで続きます・・・」
地図を確認したメンバーが、みんなに説明する声が聞こえる。
最後の出発の合図だ。
地面に降ろしたザックと向かい合う。
左右のショルダーハーネスを掴んで、両手でザックを持ち上げ、両ひざの上に乗せる。
荷の重さを実感する瞬間だ。
そのまま、向かって右のショルダーハーネスに左腕を通す。
身体を右に回転させ、両ひざを伸ばし、その反動を利用して、ザックを背にする。
ウエストベルトを締めて、ショルダーハーネスのスタビライザーを引く。
そこにどんな物理的理由があるのか、僕にはわからないが、ザックは急に軽くなる。
( 唯、歩めば 至る アイン ツバァイ ドライ・・・)
遠い日の記憶を胸に、パーティの最後尾を僕は行く。
きみが左右に揺れながら、僕の前を歩いている・・・。
きみと歩く
行動を開始したのは、午前5時8分だった。
もう、それから12時間以上が経過している・・・。
木々の合間に見える谷の風景。まだ、その底は見えない。
谷底には、ベースキャンプがあるはずだ。
ベースキャンプさえ、見えたなら・・・
きみと僕の歩みは、もどかしいまでに遅くなる。
気持ちはどんなに歩きたくても、もう足が上がらない・・・ 足が前に出ない。
そうだ・・・ 前にも、同じシーンがあった・・・。
確かに・・・ 今と、同じシーンがあった・・・
あの時も・・・
きみは、歩みを止めなかった。
きみの歩みに導かれて
僕は、歩き通すことができた。
今も、きみが前にいる。
きみが、ゆっくりと、歩いている。
それが、今、僕にある 確かなことの すべてだ。
ベースキャンプ
木々の合間に、緑色のテントが見えたような気がした。
よく見るとそれはしかし、日差しを浴びた谷の反対側の森だった。
谷底を流れる川の音はずっと聞こえているが、大きくも小さくもならない。
所々に「倒木に注意」と書かれた看板があり、チェーンソーで切断された丸太が転がっている。
確か、登りはじめに、見た風景だ。
あと何メートルだろう?
あとどれだけ歩けば、いいのだろう?
山行の終わりは、いつも自分の限界との戦いだ・・・。
何か、谷ではないものが、見えた気がした。
木立の隙間に見えるものは、間違いなく平らな地面だ。
とうとう、帰ってきた・・・。
同時に、視野の左に動きを感じる・・・。
人が登ってくる・・・
ザックを置いたサブリーダーだ。
僕たちを心配して、迎えに来てくれたんだ。
合流したサブリーダーがきみの状態を確かめている。
「 ゴールまでがんばろうか 」
体力に優れたサブリーダーは、しかし、きみのザックを背負おうとはしなかった・・・。
きみの気持ちへの最大限の配慮が、その言葉から感じられた。
三人で歩く道は、いつしか広くなり、自動車も入れる林道となった。
その林道の向こうから、みんなが手を振ってやってくる。
先にゴールしたみんながザックを置いて、最後尾の僕たちを迎えに、
いま、降りたばかりの道をのぼってくる。
目指したピークには、誰も立てなかった。
でも、メンバーの誰一人、後悔なんかしていない。
それは全員の表情を見て明らか。みんな笑顔だ。
ピークに立つ、それ以上に大切なことを
僕たちは、この山行で学んだから。
それは ・・・ 「 引き返す勇気 」
言葉にすれば、わずか6文字だけど・・・。
でも、僕は信じたい。
きみが導いてくれる明日を。
あの雲と、風の、彼方に・・・
僕たちの頂きがあった。
僕たちは、いつか、そこへ行く。
必ず、行く。
それで、いいじゃないか。
それが、僕たちの勇気との、約束だから・・・。
うん。
大切な約束だから・・・。